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最近は見かけなくなったが、ティーンエイジャーの二キビに対し、「青春のシンボル」などと意味不明の言葉が長い間使われていた(そんなシンボルはいらない!)。
要因は主に「皮脂分泌過剰」、そしてこの「皮脂分泌過剰」になる原因が、ホルモンバランスの乱れや睡眠不足、ストレスやらで多岐にわたる。 前述のように、ティーンエイジャーの二キビはある年ごろになったら軽減するというのは、この中のホルモンバランスがある程度正常化するためといわれている。
人間とは、無意識のうちに自分の存在意義や価値を感じ取りたいと願う生き物だ。 そしてそれは、自分にかかわる他者によって明らかになる。
少女時代の私にとって、少しでも自分の価値を認めてもらいたい「他者」は、親やまわりの友人、そして先生だった。 とりたててかわいいわけでもない私。

女の子として、自分は何のとりえもないと思って私は、せめて勉強ぐらいはきちんとやって、自分の存在をまわりに知らしめたいと考えると、私の場合、この″正常化″がちょうど高校二年生の後半ぐらいだったのだろうか。 私の少女時代を苦しめたいまわしき二キビが、徐々に消えはじめたのである。
ほんの神頼みのつもりで、巣鴨のとげ抜き地蔵でお札をもらった直後(それにしても、巣鴨にセーラー服……さぞかし奇妙にうつったことだろう!)だったので、私のニキビ特効薬は「とげ抜き地蔵」などと、冗談まじりに話すこともあるのだが、私はいまでもそのお札を包んでいた紙が捨てられず、大事にしまってある。 きれいになって見返してやる!一生懸命努力はするのだが、何だかすべてが空回りで、ア力抜けない、冴えない女の子それが当時の私だった。
そして、顔のニキビ…顔の美醜とは、半分は目鼻立ちで半分は肌の美しさであると思う。 私はその半分が確実にみにくかったから、自分でいわゆる容姿というものに。
そのためか、中学・高校時代の私は、勉強だけはほんとうによくやっていたと思う。 それだけやっていれば何となく自分が正しいことをしているのだと安心できたし、努力すればそれなりに結果も出たので、面白くもあったのだ。
もっとも、クラブ活動にのめり込んでもいたわけでもなかったし、ましてやボーイフレンドもいなかったので、勉強以外にやることがなかったといったほうが当たっているかもしれない。 おしゃれに関してはといえば、私は「超」がつくほど手先が不器用だったため、クラスメートがきれいに髪の毛をブローしたり、巻き髪にしているのを見て真似はするものの、まったく思い通りにはいかずカーラーの段がついたままだったり、はねてしまったりであった。
あるとき、当時はやっていたウルフカットにしたかったのだが、親が「あんな不良っぽい髪型は許さない、もしそんなふうにするなら美容院代は出さない!の一点バリだったため、何を思いついたのか自分で頭頂部の毛をカットして、さんざん同級生に笑われたこともあった。 中学・高校と通った学校を、私は最後まで好きにはなれなかった。

世間ではお嬢さま学校で通っていた、どこかしらで感じる特権意識と伝統重視の姿勢が私の肌には合わなかった。 意味のない校則でしばりつける校風もそこに通う学生も、自分には受け入れられなかった。
だから、卒業する日を指折り数えていた。 ここから脱け出したら、こんなんじゃない、いまはもっとちがう私になるのだ。
そう心に決めていた。 悪気はなかったのかもしれないけれど、同級生の書いた私の似顔絵にはいつも、顔の上にポッポッがついていた。
また、当時大ヒットした、みにくく冴えないためにからかわれた主人公が、超能力で周囲の人に復誉する「K」というホラー映画があったのだが、その主人公が私に似ていると言われたこともある。 そのときの私はただ傷つくだけで、何も言い返すことができなかった。
そして私も、映画の主人公のように思ったのである。 「絶対にきれいになって、いつか見返してやる!」と。
こうして一九八○年四月、私は高校時代からあこがれていた、青山にキャンパスを構える某短期大学に進んだ。 キャンパスライフはもちろん楽しかった。
となりの大学にはかっこいい男の子もけっこういたし、おしゃれなロケーションを意識して、毎日のように、今日は何を着ていこうかと悩むのもとても楽しかった。 相変わらず皮脂分泌は激しく肌の毛穴は開き気味だったが、人からニキビを指摘されることは、もはやなくなっていた。
もちろん鏡を見て泣くことも…。 ただ、肌も含めた容姿のコンプレックスはいつまでも私の中から消えることはなく、いつしか「きれいになること、そして見返すこと」が自分にとっての至上命題のようになっていた。

だからメイクも、とにかく一生懸命、見よう見真似で覚えた。 はじめはアイシャドーもべタ塗りになってしまうなど、ずいぶんと厚化粧になったこともあったが、徐々にやり方も覚え上達していった。
当時の女子大生のバイブルともいわれていた。 「J」を発売日にSで買い、小脇に抱えてキャンパス内を闇歩していた。
時代はバブルの初期ともいえる一九八○年代初頭。 ファッションはすでにハマトラ。
そのため、当時の私は服だけでなく下着から化粧品、小物まですべてブランドで統一していた。 髪型はもちろんレイヤードカット、靴はIのウエッジ、ニットはクレージュ。
このころの私にはすでに、髪を上手にブローできなかったアカ抜けない少女のおもかげ面影はなくなっていた。 流行のメイク、流行の髪型、流行の服。
それを追うことが当時の私にとっては絶対であり、しだいに派手で目立つ女になっていくことに快感さえ覚えていた。 そして、子どものころにあんなに嫌っていた男の子は、もはや自分を傷つける存在ではなく自信を与えてくれる存在に変わっていた。
男の子が投げかけてくれるさまざまな賛辞の言葉は、私を容姿コンプレックスから救うにはじゅうぶんすぎるほどだった。 もう誰にも、アカ抜けない、冴えない女なんて、言わせない……。

「きれいになれば、自分に対する他人の接し方が変わっていく」ことを知ったのは、このころのことだ。 そして「女はきれいになれば、何でも手に入る」という、いま考えればほんとうに愚かな錯覚におちいったのも、このころのことだった。
卒業後、とても気乗りしなかったが、学内推薦で入れるからと、ある商社に就職した。 そこでの毎日は、イヤでイヤでたまらなかった。
何がそんなにイヤだったのか?簡単にいえばその会社の保守的な社風だった。 当時は、女の子は「有名企業に数年間だけ勤めて、そこでエリートの彼を見つけて結婚する」というのがひとつの王道とされていて、私のいた会社もまさにそれをめざす女の子であふれていた。
結婚すればもちろん辞めなければならない雰囲気があり、左手の薬指にダイヤのエンゲージリングをつけて、大きな花束をもらって寿退社をするのが、女の子のレギュラーコースでもあった。 けれど、短大で上昇志向が強くなった私にそんな社風が合うはずもなく、毎日ロッカーの片隅でタバコをふかして、すぐ真下を走る渋滞中の首都高をながめては「こんなところは私のいる場所じゃない。
早く脱出しなくちゃ!」と考えていた。 制服のない会社であったにもかかわらず、わざと、とても通勤着とは思えないようなマイクロミニなどの派手な格好で通勤していた。

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